生物学的製剤レミケードで実感する鎮痛・消炎効果

関節リウマチの診断が下され、
メトトレキサートを処方されてから
丸4年が経過し、5年目に入った

その間、
メトトレキサート(MTX)の服用は、

最大時週14mgから4mgまで減少させた
ステロイド薬も
発症して1年経たないうちに服用を停止した

しかし、3年目には顔面神経麻痺の発症により
免疫力の低下を目の当たりにしたり、
歩行中に息苦しさを感じたり
徐々にMTXの副作用を強く感じるようになった
なによりも手の痛みはなかなか改善の実感が得られず、
ロキソニンテープを貼って寝ることが常態化していた
このままではいけない、と痛感したのは、
出張先のホテルのサウナで、
お勧めされた塩を手に塗ったところ
火にあぶられたような強烈な痛みが広がり、
すぐに塩を落としたが、しばらく消えない
これは、ロキソニンテープの成分が手に浸透したためで
肌がやられているのを実感した
この時から、ロキソニンテープはやめた

こうして停滞感のあるこの状況に危機感を感じ始めた
担当医には、3か月間隔になっていた通院頻度を
2か月にしたいという相談とともに
間もなく5年目に入るが、
リウマチ因子RFなどでも悪化傾向がみられる
生物学的製剤やJAKの追加はできないか
と相談したところ快諾が得られ、
2か月後、生物学的製剤レミケードの投薬となった

3時間近くかけて点滴を終えて、間もなく
手の痛みの質が変わっていることに気づく
手を動かしたときには痛みはあるものの、
静かにしているときの痛みはほとんどない
ロキソニンテープも全く必要と思わなくなった

2週間後、2回目の投薬の臨む
先生から1回目の感想を問われると
からだにFRエンジンが装着されたようで
元気になった感覚を得ています
と答えたら、喜んでもらえた
血液検査でもCRPが1年ぶりに正常値に戻ったのも大きな成果だ

2回目の点滴を終えた後も
改善されているという実感は得られている
朝のこわばり感やぽきっと折れそうになる感覚は残るものの
精神的な正常な健康体が戻ってきつつある感覚が何よりもうれしい

半田銀山史跡公園 ~歴史をつないだ村の名士と五代友厚の想い~

はじめに半田沼を望む

福島県伊達郡桑折町にある半田銀山史跡公園を訪ねた

半田銀山とは、石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)と並ぶ

日本三大銀山のひとつである

 

はじめに半田山自然公園に向かい、

半田沼を眺めながらさわやかな山の風を感じたのち

細い山道を降りて行った

記念公園に入る

東北自動車道にほど近いところに、

平成元年に整備された記念公園がある

正面に女郎橋跡、両側に鉱石運搬軌道跡の石垣がある

1台クルマが通るのが精いっぱいのこの細い道が

すぐ先で奥州街道と別れたかつての羽州街道だったことがわかる

女郎橋とは、坑夫たちが桑折町で遊んだ後、

帰りに女郎たちが見送った橋と言われる

明治の全盛期には、

桑折町には桑折座という芝居小屋もあったという

軌道跡の石垣は、鉱石を運ぶトロッコ列車の軌道跡である

鉱石は桑折駅から鉄道で日立などに運ばれた

そこをくぐるように公園内に入ると

右手に明治天皇行幸記念碑がそびえたっている

銀山行幸は五代友厚の懇願によるもので、

当時洗浄による汚染が地元農民の不満となっており

その解消をもくろんで

大久保利通内務卿に働きかけて実現させたと言われる

明治9年6月21日、総勢213名だったという

史跡の説明

記念碑の近くに、桑折町教育委員会による銀山の歴史の紹介がある

少し長くなるが、非常に精緻にわかりやすく書かれているので紹介する

桑折町指定文化財 

史跡 半田銀山遺跡と明治天皇行幸記念碑

奥州半田銀山は大同三年(807)の発見と伝えられ、

かつては佐渡金山、生野銀山と 共に日本三大鉱山と称せられ、

江戸・明治期にその盛を極めた。

史実によれば、 慶長3年(1598)上杉景勝が伊達信夫の二郡を領し、

半田銀山の調査開発を手がけ、

景勝の孫が寛文年間(1661~)家臣伊達平十郎に

栗林鋪(くりばやししき)を開坑させ

本格的に採鉱が始まった。

 延享二年(1723)に、幕府は半田銀山の良好なるに着目し、

半田銀山及び周辺一万二千余石を直轄領とし、

佐渡奉行の支配下におき、

寛延二年(1749)には桑折代官神山三郎左衛門をその任にあてた。

以来、半田銀山は幕府直営の御直山(じきやま)として

奉行所を設置し、

在方(ざいかた)役・吟味役・地方(じかた)役・勘定役など

佐渡金山と同組織で経営され、

役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され、

産出量も伸び、幕府の財政を大きく支えるに至った。

宝暦三年(1753)からは、

役所、山師、金銀吹分師、坑夫などの居住する

買石(かいし)町が設置され、

四十一軒の床屋(精錬業)、十六軒の商店、

一千三百二十六人の川せり人(川撰工)の住居などが軒を並べていた。

直山としては、

本盤・大剪(おおきり)・再光・二階平など十余の抗を数えたが

元治元年(1864)鉱脈の枯渇から

経営不振となり直山の経営を中止した。

幕府の経営中止による住民や堀子達の窮状を見かねた

地元北半田村の名主、

早田傅之助が慶応三年(1867)坑業を再開したが、

明治三年(1870)坑内の火災により息子、抗夫多数の者が出、

経営から手を引き事実上の開山となった

明治七年に至り、元鹿児島藩士、政商五代友厚により

近代的鉱法を取り入れ再開発に踏み出し、

明治九年には明治天皇の奥羽御巡幸にあたり、

岩倉具視・大久保利通らを伴い半田銀山に御臨幸され

鉱山施設をつぶさにご覧になった

その後、明治年間に活況を呈し、 大正、昭和と操業を続けたが、

明治四十三年(1910)の半田沼決壊による工場施設への被害や

鉱脈の枯渇などにより

昭和二十五年(1950)日本鉱業は採掘を停止し

これにより上杉・幕領・五代・日本鉱業へと幾多の盛衰変遷を遂げ、

三百数十年にわたる半田銀山も、その歴史に終止符が打たれた

半田銀山の遺構としては、

半田山中腹に

江戸直山期の手掘り鏨(たがね)掘りの中鋪(なかしき)坑が

二百有余年の歴史を秘めて崩落することなく現存し、

この地の女郎橋跡、鉱滓運搬軌道跡の石垣、明治天皇行幸記念碑、

また歴史の中に消えていった

銀山役人や多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養塔

・各所に残る石臼・ズリ山など往時の隆盛を偲ぶものが少なくない

又、 半田地区には、半田銀山に関わる地名として

鍛冶屋敷・御免町・十分一・大門先・水抜などが

残っておりこの地方一帯が半田銀山と深くつながっていたことが伺える

平成元年三月

桑折町教育委員会

五代友厚・龍作の祠

さらに奥へ行くと、五代友厚の後に経営に当たった

五代龍作の碑が入った祠がある

幕末、幕府による採掘が中止され、

地元北半田村の名主、早田傅之助が

地元の窮状を見て再開したが、

間もなく火災より息子を失うという悲劇が襲いやむなく停止

その無念を引き継ぎ、弘成館を率いて生野銀山に倣い

新たな精錬法で再生させたのが五代友厚だった

早田傅之助も引き続き事業への支援を惜しまなかったという

龍作は、協同鉱業で父友厚とは異なる精錬法を導入し、

事業の継続に努めた

祠には丁寧な彫刻が施され、村民の2人への敬意を感じることができる

軌道跡の石垣に登る

 

元に戻り、トロッコ列車の軌道跡である石垣の上に登る

すると公園でただ一人、しばらくの時間を過ごしていたためだろうか

7月というのに、ぞくぞくと背筋が凍るような霊気が襲ってくる

併せて、雨がひとしきり強く地面をたたきつけはじめた

向こうには、歴史の中に消えていった銀山役人や

3万人とも言われる多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養塔が

生い茂った木々の中でひっそりと覗いていた

雨の中、手を合わせ、鎮魂を念じた

先人たちの想いにふれたことに感謝し、

ひとしきり雨の降る公園を後にした

三春 やわらぎの湯 デトックスを極める

全国でも傑出した正統派のラドン温泉



夏の休暇を使って、3泊4日で福島県 三春 やわらぎの湯を訪ねた

本格的なラドン温泉としては、
山梨県 増富温泉 金泉閣
山梨県 竜王ラドン温泉
に続いて、3か所目になる

これまでのラドン温泉では、
関節の痛みの緩和の面で際立った効果は感じられなかった
でもデトックスの面で
飲み続けている抗がん剤の成分をいったん体からリセットする効果は感じられた
今回も放射線よりもデトックスでの効果を期待して
3泊4日滞在した

岩盤浴により細胞が活性化し、
抵抗力強化に実感

ほかの施設との違いは、はじめに
岩盤浴(ここやわらぎの湯では、「岩磐浴」と書く)
今まで経験したぬか風呂や岩盤浴と比較して
過酷なほど暑さと湿気による汗の量がすざまじかった
3泊4日で合計11回、440分で約7時間
血行が改善し、からだの細胞が活性化して、強い抵抗力をいただいている
そんな実感が得られた

館内に2か所あり、湿度が2Fで最大90-100%、1Fで50-70%
これに放射線の効能と相まって、発汗が促進される
特に2Fは入った瞬間に
じりじりと焼き付く熱風のような空気がからだを覆う
仕切りのある長方形の枠が設けられ
隣り合わせにならないよう場所を選んで、横になる

うつ伏せで内臓を温めることが勧められる
そして鼻や口が低い位置のほうが放射線が当たりやすいと教えられる
ここは癌患者など放射線の効能を求めて滞在するひとがいるので
放射線量が高い場所は譲るよう配慮する
ずっとうつ伏せのままで、できるだけ多くの放射線が浴びれられるように
フェイルタオルで顔を覆うようにしているひともいる
ここは湯治場であることをしっかりと感じ取れる

一回当たり40分と入場時間が決まっていて、
濃度で10分の場所と30分の場所が分けられていて
場所を交換する
空いていれば、ずっと30分のところに40分間いられる
2Fではひたすら熱さとの我慢比べになる
じりじりと地面からの熱がからだを覆い
耐えきれなくなってあぐらをかいて水を飲む
水は、この施設の地下から湧き出る霊泉水をいただく

残りの15分あたりから時間が止まって残り時間が減らない
時間よ止まれ、ならぬ、時間よ動けという思いは
生きている時間の中であまり経験がない
そのくらいそこから逃げ出したくなる我慢の時間だった

それゆえに、難病をなおすため、さらには命の終わりに直面し
すがる思いでこの灼熱の部屋にいる人たちの想いが
鎮座する観音様からも伝わってくる

自然を感じる新鮮な素材に感謝

ほかの施設との違いとして、次には
朝夕2回の食事のおいしさ



自然の素材をできるだけ活かすように心くばられている
おなかいっぱいにいただいても、もたれない
これだけの種類をいただけるのはほかにはない
以前はバイキングだったそうだが、
コロナ後は小皿に盛られているので
厨房で働いている方がたの苦労がしのばれる

そして毎日ご飯やみそ汁を笑顔で盛ってくれる
元気なスタッフの方には頭が下がる
周りをふと見ると高齢の方々が多いので
ややもすれば、老人介護施設の食事風景に見えなくもない
漏れ聞こえてくる会話からも、
常連客同士のトラブルも皆無ではないようだ
しかし4日間滞在した限りでは
顧客のマナーはとても良く
スタッフの温かさに包まれていた
いつか将来施設にお世話になる日が来たら、
こういう施設に入りたいものだ

ただ一つ難を言えば、
これだけ汗をかいても
瘦せることはなく、
むしろ体重は増えてしまうのは避けられない(かもしれない)

三春の豊かな自然と城下町の穏やかな気質

ほかの施設との違い、3つめは
周りの環境に魅力があふれていること
三春は日本三大桜として「三春滝桜」が有名だが、
ほかにも魅力がいっぱいあった

岩盤浴は5時間の間隔をあけないといけないので、
そのあと、温泉で汗を流しても、まだ時間があく



城下の町内を散策する
藩塾の入口で現在も三春小学校の学童を見守っている追手門は
この城の威厳を示してくれる
向かいの丘を昇った歴史民俗資料館では
古の商家や農家の暮らしぶりなど
今よりも心の豊かな時代を想起させ
ほっとできる空間になっている

南へ4kmほど下ると
自然観察ステーションがある
ここでは、ここに住む多くの生き物たちや
ともに楽しむ子供たちのイベントが紹介されている





都会から見るととても贅沢だ
福島最大、東北2番目の町郡山も10キロほどと近い
それでいて磐越東線で向かうと山を登っていくパノラマを楽しめる
福島からなだらかな丘を登っていく桑折の町に似ている

病に苦しむ多くの人を助け、町の活性化に取り組む
やわらぎの湯の創業者の慈悲深さは
こうした環境から編み出されているのだろうと思った



 

 

 

 

 

 

 

イルカとおもいきり遊ぶ~日本ドルフィンセンター~

行動制限なしの夏休み、3年ぶりの宿泊を伴う旅行で向かったのは
香川県さぬき市日本ドルフィンセンター

岡山から高知行特急南風で宿泊する琴平へ向かう
ホームには南風と併結された徳島行特急うずしお

 

向かいには、松山行特急しおかぜ

松山道後温泉をテーマにしておしゃれ♬


さらに奥には、瀬戸大橋アンパンマントロッコが待機
アンパンマンでいっぱいの岡山駅でした
 

列車はほどなく瀬戸大橋へ

琴平からクルマで日本ドルフィンセンターへ
高速を飛ばして1時間ほどで到着
予約の時間まで少し時間があるので、
近くにある道の駅津田の松原で少し遅めのお昼
まかないうどんをいただく
お揚げ、とろろ、牛肉、わかめ、梅干しなど手作り感満載
ほのぼのとする本場のうどんでした

ゲリラ豪雨があり、ひやひやしたが、予約時間前には
快晴となり一安心
駐車場から送迎バスで岬の向こう側へ行くと、現れました

 
瀬戸内の島々を眺めながら、
イルカさんたちのいるプールを一望
テンション上がってきた

ウエットスーツに着替えてイルカたちのいるプールへ
たくさんのイルカさんに囲まれて、背中やおなかを撫でて
最後は尾びれにつかまってひと泳ぎ
あっという間の30分でした
海外でのイルカとの触れ合いを含めても、
これだけの長い時間、間近で触れ合えて
人なつっこいたくさんのイルカがいるのは
ここ以外はないのではないでしょうか
東京からは少し遠いけれど
おかげさまで
3年間のコロナのストレスが吹き飛びました