半田銀山史跡公園 ~歴史をつないだ村の名士と五代友厚の想い~

はじめに半田沼を望む

福島県伊達郡桑折町にある半田銀山史跡公園を訪ねた

半田銀山とは、石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)と並ぶ

日本三大銀山のひとつである

 

はじめに半田山自然公園に向かい、

半田沼を眺めながらさわやかな山の風を感じたのち

細い山道を降りて行った

記念公園に入る

東北自動車道にほど近いところに、

平成元年に整備された記念公園がある

正面に女郎橋跡、両側に鉱石運搬軌道跡の石垣がある

1台クルマが通るのが精いっぱいのこの細い道が

すぐ先で奥州街道と別れたかつての羽州街道だったことがわかる

女郎橋とは、坑夫たちが桑折町で遊んだ後、

帰りに女郎たちが見送った橋と言われる

明治の全盛期には、

桑折町には桑折座という芝居小屋もあったという

軌道跡の石垣は、鉱石を運ぶトロッコ列車の軌道跡である

鉱石は桑折駅から鉄道で日立などに運ばれた

そこをくぐるように公園内に入ると

右手に明治天皇行幸記念碑がそびえたっている

銀山行幸は五代友厚の懇願によるもので、

当時洗浄による汚染が地元農民の不満となっており

その解消をもくろんで

大久保利通内務卿に働きかけて実現させたと言われる

明治9年6月21日、総勢213名だったという

史跡の説明

記念碑の近くに、桑折町教育委員会による銀山の歴史の紹介がある

少し長くなるが、非常に精緻にわかりやすく書かれているので紹介する

桑折町指定文化財 

史跡 半田銀山遺跡と明治天皇行幸記念碑

奥州半田銀山は大同三年(807)の発見と伝えられ、

かつては佐渡金山、生野銀山と 共に日本三大鉱山と称せられ、

江戸・明治期にその盛を極めた。

史実によれば、 慶長3年(1598)上杉景勝が伊達信夫の二郡を領し、

半田銀山の調査開発を手がけ、

景勝の孫が寛文年間(1661~)家臣伊達平十郎に

栗林鋪(くりばやししき)を開坑させ

本格的に採鉱が始まった。

 延享二年(1723)に、幕府は半田銀山の良好なるに着目し、

半田銀山及び周辺一万二千余石を直轄領とし、

佐渡奉行の支配下におき、

寛延二年(1749)には桑折代官神山三郎左衛門をその任にあてた。

以来、半田銀山は幕府直営の御直山(じきやま)として

奉行所を設置し、

在方(ざいかた)役・吟味役・地方(じかた)役・勘定役など

佐渡金山と同組織で経営され、

役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され、

産出量も伸び、幕府の財政を大きく支えるに至った。

宝暦三年(1753)からは、

役所、山師、金銀吹分師、坑夫などの居住する

買石(かいし)町が設置され、

四十一軒の床屋(精錬業)、十六軒の商店、

一千三百二十六人の川せり人(川撰工)の住居などが軒を並べていた。

直山としては、

本盤・大剪(おおきり)・再光・二階平など十余の抗を数えたが

元治元年(1864)鉱脈の枯渇から

経営不振となり直山の経営を中止した。

幕府の経営中止による住民や堀子達の窮状を見かねた

地元北半田村の名主、

早田傅之助が慶応三年(1867)坑業を再開したが、

明治三年(1870)坑内の火災により息子、抗夫多数の者が出、

経営から手を引き事実上の開山となった

明治七年に至り、元鹿児島藩士、政商五代友厚により

近代的鉱法を取り入れ再開発に踏み出し、

明治九年には明治天皇の奥羽御巡幸にあたり、

岩倉具視・大久保利通らを伴い半田銀山に御臨幸され

鉱山施設をつぶさにご覧になった

その後、明治年間に活況を呈し、 大正、昭和と操業を続けたが、

明治四十三年(1910)の半田沼決壊による工場施設への被害や

鉱脈の枯渇などにより

昭和二十五年(1950)日本鉱業は採掘を停止し

これにより上杉・幕領・五代・日本鉱業へと幾多の盛衰変遷を遂げ、

三百数十年にわたる半田銀山も、その歴史に終止符が打たれた

半田銀山の遺構としては、

半田山中腹に

江戸直山期の手掘り鏨(たがね)掘りの中鋪(なかしき)坑が

二百有余年の歴史を秘めて崩落することなく現存し、

この地の女郎橋跡、鉱滓運搬軌道跡の石垣、明治天皇行幸記念碑、

また歴史の中に消えていった

銀山役人や多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養塔

・各所に残る石臼・ズリ山など往時の隆盛を偲ぶものが少なくない

又、 半田地区には、半田銀山に関わる地名として

鍛冶屋敷・御免町・十分一・大門先・水抜などが

残っておりこの地方一帯が半田銀山と深くつながっていたことが伺える

平成元年三月

桑折町教育委員会

五代友厚・龍作の祠

さらに奥へ行くと、五代友厚の後に経営に当たった

五代龍作の碑が入った祠がある

幕末、幕府による採掘が中止され、

地元北半田村の名主、早田傅之助が

地元の窮状を見て再開したが、

間もなく火災より息子を失うという悲劇が襲いやむなく停止

その無念を引き継ぎ、弘成館を率いて生野銀山に倣い

新たな精錬法で再生させたのが五代友厚だった

早田傅之助も引き続き事業への支援を惜しまなかったという

龍作は、協同鉱業で父友厚とは異なる精錬法を導入し、

事業の継続に努めた

祠には丁寧な彫刻が施され、村民の2人への敬意を感じることができる

軌道跡の石垣に登る

 

元に戻り、トロッコ列車の軌道跡である石垣の上に登る

すると公園でただ一人、しばらくの時間を過ごしていたためだろうか

7月というのに、ぞくぞくと背筋が凍るような霊気が襲ってくる

併せて、雨がひとしきり強く地面をたたきつけはじめた

向こうには、歴史の中に消えていった銀山役人や

3万人とも言われる多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養塔が

生い茂った木々の中でひっそりと覗いていた

雨の中、手を合わせ、鎮魂を念じた

先人たちの想いにふれたことに感謝し、

ひとしきり雨の降る公園を後にした