東京堂書店がくれた本の愉しみ

楽しみにしていた週1冊の本との出会い

中学校の3年間から高校の前半くらいまでは、本の虫だった

週に1冊読むことを習慣とし、狭い自室の本棚はすぐにいっぱいになった。

主に和洋問わず、様々な小説をむさぼるように読んだ。

 

その時にお世話になったのが、東京堂書店だった

間口は狭いのだが、奥行きはあり、奥のほうに行くと静かで落ち着いた

そこにある文庫本は豊富だった

その前で、本のタイトルだけを頼りに、面白そうな本を手に取り、家に帰ると時間を問わず読書に明け暮れた

そんな毎日だったので、人と関わることは少なく、

その分作家や小説で描かれている世界への想いを強めていった

その後高校生の時に訪ねた花巻の高村光太郎の山荘や

大学時代に訪ねたギリシャの国立博物館など

自身の一部となった物語や詩が生きていることを確かめ

とても満足したことが思い出される

本と本棚の価値観が変わった

こうして多くの本を提供していただいた東京堂も今はなく、

その後、駅前にあったたくさんの本屋さんも

通販や紙離れにより多くが姿を消しているようだ

 

かく言う自身も例外ではなく、

その後の文芸書やビジネス書でいっぱいになった書棚は

高さが237cm、幅が180cm、

奥行きもスライドのため47cmと

部屋の中でそびえたっており

一連の断捨離の流れで

その役目もそろそろかと思っている

変わらない東京堂のあった場所のぬくもり

家族からまるで本屋さんのようだと

言われる本の虫も

東京堂さんに育てていただいたわけで

今でも店のあった建物の前を通ると

奥までびっしりと並べられた本のぬくもりが

伝わってくるようだ

進学塾の創成期 能率(能率進学教室)の記憶

中高一貫校への進学へと導いた同級生

この塾に通うきっかけは、小学校の同級生から誘われたからだった

もともとは普通に近くの公立中学に通うつもりであったのが、

結果的には、その後私立中学の受験・進学に進むこととなり、

想定していなかったコースに案内してくれたのはこの同級生となる

能率の受講生募集より

当時の受講生募集案内の冒頭には、下記のコピーが踊っている

◎ 国立・私立中学進学の権威!

◎ 各科専任講師による能率的学習法!

◎ 日曜テスト・コンピューターによる編差値算定!

◎ 日本学習能率研究会が編集する独自のテキスト使用

「偏差値」という言葉に初めて触れ、

 おそらくは当時の塾の中でも先進的な指標だったのだろう

「各科専任講師」という表現も、当時は珍しかったのかもしれない。

記憶に残っているのは、社会の先生で

授業中に質問に答えられないと、

「デコピン」と呼ぶ指先でおでこにぱちんと叩かれる儀式が

緊張感とワクワク感を高じさせた

 

駅前からスクールバスを使い、

帰りは自宅近くまで送ってくれた

校舎は少なくとも2つはあり、

平屋で農家を改造したような趣があった

夜おなかがすくと、

近くの売店でおやつを買ってつまんでいた

 

受験校を選ぶ際には面談があり、

何人かの先生を前に、受験校を絞っていた。

ただそのころはまだ中高一貫校への受験熱はそれほど高くはなく、

それまでの模擬試験の結果を見ながら、

2校くらいに絞り込まれていて、

通える距離かどうかなどで1校を選んだという、

今に比べれば併願などもないのんびりとした時代だった

進学塾創成期の仲間たち

受験が終わり2月中旬には、修了式のような集まりがあり、

広告にはその時の集合写真が掲載されている

上のほうから撮影していて、

皆見上げるようにして笑っている

一人一人の笑顔が生き生きとしていて、

その後進学した私立校の同級生もいることから

小学校の卒業式とは別のもう一つの卒業式の写真のようだ

※プライバシー保護のため、ぼかしています

新聞のチラシで配られていたものですが、穏やかな時代でした・・

 

その後ほとんどの人とは会う機会はないが、

中学受験から大学受験、そして就職、入社後と、

人それぞれにピークとハードルがあり、

挫折したもの、それを乗り越えたもの、悲喜こもごもなのだろう

彼らの笑顔を見ていると、

一つも曇りもなく未来に向けて飛び立とうとしている

それぞれの想いが感じられて、やけにまぶしい

 

広告は、年度初めの春期講習会で、

新6年生は午前中に基礎練成と午後に実力練成クラスが組まれている

それぞれ受講料9,000円、テキスト代500円で、

中学受験希望者は基礎・実力両方なので19,000円となり、

当時としては決して安い授業料ではなかっただろう

親には感謝したい

能率へのレクイエム

その後、この塾はしばらく活気があったのだと思うが、

ご存知の通りその後の本格的な受験ブームと進学受験塾の台頭により、

姿を消すことになる

当時の敷地を探しても、住宅街の中に埋もれて、その面影は残されていない

あの頃の塾の先生たちも、小学校の先生と同じように、

元気でおられるか時おり思いだしては感謝している

どこか人間味のある温かな先生たちだった

ニュータウンだった街はどこへ向かうのか

深い森

半ズボンで遊んでいた頃、裏山には大きな森があった

そこでは野うさぎが走りまわり、

蛇たちが縦横無尽に這えずり、

山ゆりが甘い香りを漂わせていた

春には、ぜんまいも良く採れた

湿地を超えるときには、

丸太にしがみつきながら、

恐る恐る奥にある未知の世界へ渡っていった

やがて自転車でも走る山道となり、

時には蜂に追われながら、

山を下りていくこともあった。

田んぼの楽園

近くの田んぼでは、アマガエルが跳ね、

足を入れると蒜(ひる)に血を吸い取られた

そこでも様々な生き物たちの楽園だった

やがて造成した広場になると、草野球場となり、

時には泥の玉を作って、二手に分かれてぶつけ合いを繰り広げた

けがをさせればしょんぼりとその子の親のところへ謝りに行った

もはや今その面影はないが、耳をそばだてると、

鳥たちのさえずりや子供たちの歓声が聞こえてくる気がする

駅前の風景

駅に出れば、シンボルだった鶏の塔があった

駅前の公園は、なだらかな坂になっていたが、

何の抵抗もなく子供たちの草野球場でもあった

プラーザビルの小さなおもちゃ屋は、

子供たちのたまり場になっていて、

その対応疲れなのか店員の女性はいつも無表情で愛想がなかった

月に一回だけ「山ゆり」という小さな洋食屋での家族との外食が楽しみだった

そこで生まれて初めてグラタンをほおばり、

その後、おそらく最後の晩餐には指名するであろう最大の好物のひとつとなった

そして父は、

駅前の東急サービスセンターで開かれる植木市でお気に入りを探し、

庭で大事に育てていた

ここでは盆踊りもあり、

あの熱気は蜃気楼のように思い出に残されたままだ

あのニュータウンはいま・・

今は大きなビルに囲まれ、

お店もたくさん増えた

その分、人ごみにまぎれて駅を降りると青空は見えず、

とても小じんまりとして窮屈に感じる

お店に個性が感じらず、

どんどんと街の色が失われていくような気がする

 

思えば親の代、希望を馳せて広々としたこの地にやってきて、

この地の発展と共に、子供たちの成長を見守り、

そして今は静かに余生を送っている

家の近くまで来ると、とてもひっそりとして、昔のように声を上げれば家の周辺どこまでも響きわたるようだ。

いま親の世代が終わると、子供たちが売却した土地は切り売りされ、

新たな世代の人たちが住む

そのため周りの家々も小型化してきている

横浜都民と揶揄されるこの街も、

皮肉にも都内の町の風景と大きな差が感じられなくなっている

 

この風景を見ていると、小都市化し、

わくわくする自然や人と交流する場所をさがすことができなくなってきている

そのことが寂しさをかきたてる

かつて親も子も感じた

自らが作り出すポテンシャリティをかもし出す街に

もう一度生まれ変われないものか

変わらぬ教育熱

田園都市の特長として、

教育レベルの高さがある

小学校の高学年になるころには、進学塾があり、

友達に誘われて通い、私立中学に通うことになったが、

当時から私立校への進学率は高かった

中高を過ごした母校には東京から通学する学友が多かったし、

今も教育度の安心を求める新しい家族も増えているようだ

これは大事な文化のひとつと思う

一方で芸術や文芸をもっと根付かせて、

住む人の心の豊かさを醸成する街の風が求められているだろう

コミュニケーションの場が多く形付けられる遊びの場、生活の場が

求められているのではないか

再生する街のありようとは・・

特に駅を降りたときその町の印象は決まる

失われた緑をより多く再生し、

大きな青空と木々の匂いを感じたい

商業エリアは分離され、

そこでは小さな自営業の店をもっと活性化していく

ことも求められているのではないか

かつて訪ねて売りに来てくれていた地元の農家の人がいたように、

その日に収穫された新鮮な野菜を販売し、

ふれあいを持てる場もあるといい

語源の通り、

カルティベイトとカルチャーとが融合する新たな街づくりが望まれる